“「ティル・ナ・ノーグ」 と言うRPGがありました (1988年 システムソフト
(画面は MSX版の物です)




このゲームのウリは シナリオジェネレーター


9桁の数字を入力すると、そこから オリジナルのRPGシナリオ、ワールドが自動生成され
プレイヤー一人一人が 全く別な世界で冒険できる と言う画期的な物でした。





これって 今で言う所の プロシージャルですよね
それが、こんな時代に作り上げられた とは

せっき~も、その当時 「10億通りもの シナリオが!!」の ウリ文句に心惹かれ
どんなテクノロジーで出来上がっているのだろう? とワクワクした覚えがあります。
(MSXでは、生成に30分ほど時間がかかり
それは、すごい事をやっているんだろう  と感心していました)
「黙読という読み方が初めて書物に記されたのは12世紀」「それまで本を「読む」ことは「音読すること」すなわち「聞く」ことだったが、黙読の技術の一般化によって、書き文字は「発話」から独立した」 / “「読む」を変えた10の出来事 – 読む…” htn.to/y5uZfW

Twitter / @raitu

西岡さん。

江戸後期~末期ってさまざまな改革が行われたけど、結局、根本的な改革になってなかったこと明治維新という劇薬的な改革によって明らかになった。今後の日本はそういう江戸後期的状態が長く続きそうにも思う。 / “「【人界観望楼】外交評論家・岡本…” htn.to/uRK3qV

Twitter / @fromdusktildawn

fromdusktildawnさん。

yajifun:

Actor Onoe Kikugoro as Tenjiku Tokubei / Kunichika

天竺徳兵衛 尾上菊五郎 豊原国周 1883年

“ハワイは王国であったが、米国からの入植者が経済的実権をもち、人口においても多数派となっていた。そのまま米国に併呑(へいどん)されてしまうことを恐れたハワイ人は、日本から移民を入れることで対抗しようとした。1881年、国王カラカウアが日本を訪問し、隠密に移民を要請したのである。その結果、ハワイに日本人が急増した。さらに、日本の軍艦がハワイを訪れるようにもなった。それは、太平洋を「アメリカの湖」とする米国の戦略を脅かすものと映った。そのため、日本移民が排斥されるようになったのである。
 以後、米国はハワイを併合しただけでなく、米西戦争を通して、キューバやフィリピンを併合するにいたった。このような帝国主義に対応して、日本も帝国主義に転じ、琉球の併合、朝鮮への侵略に向かった。だが、この時期、日米の対立は目立たなかった。たとえば、1905年には、日本が朝鮮を取り、米国がフィリピンを取ることを相互に承認する密約(桂・タフト協定)が結ばれている。日米のそのような“友好関係”がまもなく激突に転化したとしても不思議ではない。したがって、太平洋戦争の原因を知るためには、本書のように日米関係を19世紀後半に遡って見る必要がある。”

 骨は江戸の人々の暮らしぶりを伝えている。栄養状態が悪く、特に鉄分が不足していた。現代なら死亡率の低い若い世代の骨が多いのも特徴で、伝染病がたびたび流行し、人が簡単に死んだことを物語るという。

 江戸時代の成人の平均身長は男性が150センチ台半ばで、女性はそれよりも10センチほど低い。日本のすべての時代の中で最も小柄だった。栄養状態が悪いうえに狭い長屋などに密集して生活したストレスの影響と考えられるという。「生活は厳しかった。スラムといった方がいい江戸の影の部分が骨には記録されています」と篠田さん。

“日本国民は何をしたのか。①中小零細企業が貸し渋りと貸し剥がしに遭い、銀行の身代わりに倒産させられた。②超低金利からゼロ金利を耐えさせられ、庶民の得べかりし貯金や退職金の金利差益を銀行に没収された。③大銀行に法外な免税特権が与えられ、国家は財政赤字となり、庶民が負担を背負わされた。ずっと昔、まだ嶌信彦が解説者をやっていた頃のTBS「ブロードキャスター」で、福留功男が、「端末機の前であんな面倒くさい手間をかけさせられて、手数料を欲しいのはこっちの方ですよね」と言っていたのを思い出す。正論だった。政治的には自民党べったりで右派で新自由主義の宣伝屋だった福留功男だったが、銀行に対してだけは他のマスコミ論者より厳しく、庶民の感覚を番組で代弁していた。「ブロードキャスター」の17年は、バブル崩壊から新自由主義の時代そのものである。この①-③によって銀行の不良債権は年々処理されて行き、銀行は破綻を免れたのである。この日本の銀行の不良債権処理を事実上指揮して、時間をかけて国民から富を移転する形で救済したのは、その指導者は宮沢喜一である。アイディアもプランも宮沢喜一のもので、宮沢喜一らしい個性が政策に漂っている。黙ってやるということだ。”

 1970年以前の日本は、脂肪摂取比率20%を満たしていない。そして、そのころ日本人の死亡原因のトップはやっぱり脳卒中で、適正脂肪摂取比率を満たした1975年ごろから脳卒中での死亡数は「急速に低下」したわけだ。

 はたして、「日本型食生活」といわれて思い浮かべるのは、1970年代より以前の食事だろうか。それとも、1970年以降の食事だろうか。言われた人の年代にもよるだろう。でも、1970年代以前の食事を思い浮かべる人も多いと思う。その食事は、「健康的」ではない。「日本型食生活」という言葉は、日本の「伝統的」食生活が体にいいのだという誤った情報を流布しかねない。そのような言葉の使用は、やめたほうがいいと思う。*1

代表なくして課税なし(だいひょうなくしてかぜいなし、英:No taxation without representation、Taxation without representation is tyranny)は、アメリカ独立戦争1775年 - 1783年)時のスローガンの一つ。

当時、イギリス領であった北アメリカ東部に植民していた人々は、税を課せられていながら自ら選出した代議士をロンドンにある英国議会へ送ることが許されておらず、これを不服とした植民地民の間でイギリス本国への反感が生まれ、独立への気運を高めた。「代表無しの課税」はイギリスの行った主要な不法行為の一つとしてアメリカ独立宣言においても挙げられている。

1773年12月16日の夜に事件は起こった。毛布やフェイスペイント等でモホーク・インディアン風の簡易な扮装をした3グループ、50人ほどの住人がボストン港に停泊していた東インド会社の船を襲撃。「ボストン港をティー・ポットにする」と叫びながら、342箱の茶箱を海に投げ捨てた。騒ぎを聞いて駆けつけた多くのボストン市民は、加勢も制止もせずこの様子を見つめていた。これが「ボストン茶会事件」と呼ばれる事件で、行動を起こしたのはボストンの急進派市民(自由の息子達)であり、組織化の中心となったのはサミュエル・アダムズである。

この時投棄された茶の損害額は1,000,000ドルに上るといわれ、この事件には植民地人の間においても賛否がわかれ、東インド会社の賠償請求に対してベンジャミン・フランクリンは私財をもって“茶の代金(茶税分を除く)”の賠償を試みようとしている(結局、賠償はされなかった)。

イギリス政府はこれに対して、翌年、ボストン港の閉鎖・マサチューセッツの自治の剥奪・兵士宿営のための民家の徴発などの強硬な「抑圧的諸法」を出してボストンを軍政下に置いた。植民地側は同年9月、フィラデルフィアに12の植民地代表を集めて第1回大陸会議を開き、本国議会の植民地に対する立法権を否認することと、イギリスとの経済的断交を決議した。このような緊迫した情勢の中で、翌年4月、ボストン郊外のレキシントンとコンコードでイギリス軍と植民地民兵が衝突し、ついに独立戦争が勃発したのである。

また、茶法に反対する一連の運動によって、植民地人の間にはそれまで愛飲していた紅茶をボイコットする者が多くなり、代わりにコーヒーが普及した。現在でもイギリス人に紅茶党が多い一方、アメリカ人にはコーヒー党が多いが、この不買運動に由来するものである。

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